松田尚子の想うダンスとは
「余白のある表現」
子供の頃から、ラジオが好きでした。
声しか聞こえない事に、子供ながらに色気のようなものを感じて、声を聞きながら、話している内容や話している人の事など、いろんな想像をするのが大好きでした。
「声だけ」とか「体だけ」という、不完全な表現が好きです。
不完全な表現には想像する余白がある。
踊りには、言葉がない分、想像する余白がある。
余白の分だけ、受け取り側に自由があり、見ている人の何かに引っかかり、
「自分でも何故かわからないけれど、心動かされる」
「直接言葉を伝えられるよりも心の琴線に触れる瞬間がある」
この余白は踊りの魅力だと思います。
「饒舌な体」
何故かわからないけれど、心動かされる。
この余白に何を感じているのか?
私は「人」を感じているんだと思っています。
人の体はとても饒舌だと思います。
嬉しい時に、口角をあげて「やった!」と両手を掲げる様に。
哀しい時に、うつむき、背中を丸める様に。
心と体は繋がっていて、いつも体はしゃべっている。
体にはどうしてもその人が漏れてしまうもの。
自分が思う以上に自分が漏れてしまうのが、体・動き、「ダンス」だと思います。
だから逆に言うと、「ダンス」にはその人が見える。
どんなに演じても、どんなに言葉で巧みに繕っても、かっこつけても、踊ると自分で思うよりも正直な自分が漏れてしまう。
ダンスにその「人」を感じる。
私にとってのダンスの魅力はそこ。
29年も続けてきた理由もそこです。
「好きに素直に」
そう、29年も踊っているのです。。笑
私事ですが、実はここ数年、少ししんどい時期がありました。
大好きで、楽しくて仕方がなくて始めたダンス、
踊る事が私の生き方となり、踊る事で認められる事が嬉しく、幸せに必死に過ごしたダンス人生でしたが、
いつの頃からか、認められる為に、「凄くありたい」「凄いダンサーでなければならない」という付加価値が風船のように膨らみ、
ダンスにしがみつき、いつの間にか、大好きだったはずのダンスが、しんどい物になっていた事にも気付かず、今年の始めにヘルニアを発症し、全く動けない日々を過ごしました。
お陰様で、今では全く痛みを感じず、健やかに動ける程に回復しましたが、その怪我がきっかけで、「凄いダンスを踊りたい」という気持ちを手放しました。
私は肉体を躍動的に使う踊りが大好きです。
今までずっとそう踊ってきました。
怪我をしてから、こうして体ばっかり使ってきた自分のスタイル自体を「動けばいいってもんぢゃない。」と、否定してしまった時もありましたが、やはり私はこの躍動感が大好き。理屈ではなく、好き。
「凄い・凄くない」の判断基準ではなく、好き。
そういう人の「好き」や、そこへ行き着く様々な葛藤すらも、踊りには漏れてしまう。
そんな、人間味を感じる「ダンス」が、大好きでなりません。
これからも、自分が好きだなと思う、表現の仕方を研究し、仲間を増やし、発信していきたいなと思っています。
体が放つその「人」の何かが、
見ている人の心のひもを解いてくれる。
踊りにはそんな魅力があるんです。